通訳のアタイ氏
2003/7/1

 「簡単な計算もできない」、「云われたことしかできない」、現地スタッフへの苦情を国連の同僚から頻繁に聞く。その通りと思うこともある。しかし、20数年に及ぶ内戦の混乱を生き抜いてきたアフガニスタンの庶民の逞しさは、人間を表面的に評価することの軽薄さを思い出させる。

 今、私の目の前に40歳のアフガン男性が座っている。去年の暮れから、英語とダリ語の通訳として国連アフガニスタン地雷対策センター(MACA)に勤務するアタイ氏である。3人の子持ち。柔和な笑みを浮かべながら、毎朝、「兄弟、お茶はどうですか」と生姜茶を私に勧めてくれる。大学で英文学を学び、携帯型の日本の琴のような伝統楽器を能くするソフトなアタイ氏だが、他のアフガニスタン人同様、普通の日本人には経験できない人生を送ってきた。

 
81年3月バザールに買物にいったアタイ少年は運悪く共産政府軍の強制徴兵の場に居合わせてしまったために、誘拐されるようにカブール市から70キロのサルビス兵営に収容された。3ヶ月の訓練の後、ムジャヒディーン(イスラム聖戦士)との戦いに向け戦場に送られる筈だったが、兵営近くの市場で偶然、亡父の友人に出会い、その助けを借りて兵営を脱走する。その7年後に、同様に強制徴兵されたアタイ氏の弟は、兵営からの初の帰省の際に乗っていたバスが対戦車地雷に遭遇し、亡くなった。彼は徴兵される1年前に結婚したばかりだった。

 
共産政権を恨むアタイ氏は92年のムジャヒディーンの実権奪取を喜んだが、ムジャヒディーン間の勢力争いは彼の住む町を戦場と化し、アタイ氏は財産を捨てて命からがら幼い娘と妻を連れてパキスタンに逃れた。その後事態は好転し、アタイ一家は9ヶ月の難民生活を経て、アフガニスタンに帰国した。93年12月にはカブールのインド大使館通訳の職に就き、ようやく彼らにも春が訪れたように思われたが、94年元旦、ラバニ前大統領と軍閥ヘクマティヤルの間で首都を舞台に熾烈な戦いが開始された。報道によればヘクマティヤルは1日平均千発から三千発のロケット弾、火炎弾、爆弾をカブールに打込んだ。カブール南東部に住んでいたアタイ家は自宅の防空壕に潜んだが、24時間の停戦が決まるに及んで、家族全員で持てる物のみ持出し、急いで戦闘の無かった市北東部に逃れた。

 
96年9月28日、タリバンが政権掌握。北部同盟の幹部、特にマスード司令官の行方を追うタリバンは、マスードの住所を聞き出すために、過去に同司令官のためのビザを発給したことのあるインド大使館を訪れ、現地職員のアタイ氏を連行した。留置所に拘置し、拷問を加えた。もともとマスードの居場所など知るわけの無い彼であったため、一週間後には釈放された。それから暫くしてバザールに買物に行ったアタイ氏は、髭を生やしていないという理由から、公衆の面前でタリバンに殴打された。かくして、アタイ氏は再度パキスタンに逃れることを決意する。

 
アタイ氏の兄弟は現在ノルウェー、ロシア、アメリカ、オランダ、イランに住んでいる。アタイ氏自身もオーストラリアへの難民としての移住を、二度目のパキスタン滞在時代に申請したが、オーストラリア大使館でのインタビュー直前に9・11が発生し、その手続きはうやむやにされた。米軍と北部同盟によるタリバン追放後、2001年11月にボン合意によるアフガン復興プロセスが始まり、アタイ一家は翌春、カブールに戻ることになる。

 再帰国後、元の職場のインド大使館に職を求めたアタイ氏だが、待遇面で折り合いがつかず、昨年末よりMACAに席を置いている。彼が淹れてくれたお茶を飲みながら「難民とは難を乗り越えてきた民」であるという言葉を心の中で反芻する。まだ私より若いのに、これまでに三度財産を失い、二度難民になるなど、戦災による辛酸を数多く舐めてきたが、その表情に屈折した影は全く見受けられない。いろいろ大変だったねというと、「いや、多くの命を落とした人々と比べると私達はラッキーです」と応えるアタイ氏。アフガニスタンの歴史の波に揉まれてきたアタイ氏達が、再びパキスタンに逃れざるを得ないことのないよう心から祈りたい。「腎臓と脳にいいですよ」と彼が分けてくれたアーモンドをほおばりながら、そんなことを思った。

アタイ氏(左)と筆者

報告者:小泉 尊聖  

▲日本紛争予防センター(JCCP)日本語トップへ||[email protected]